会報 第46号

Rise 第46号 2017年03月10日発行 rise46.PDF  

軍隊の革命化へ・Ⅱ

ロシア革命から100年 労働者の国際連帯で

プロレタリア世界革命へ

戦争と革命の急接近情勢

ゼネストと兵士の獲得で軍隊の革命化へ

滝山

1917年2月革命と労働者・兵士の結合

 1917年に入るとペトログラードでは1月9日の「血の日曜日」記念日に大規模なストライキが打たれた。
 ロシア革命は、レーニン・ボリシェヴィキの軍隊工作で兵士が労働者のゼネストに合流することで比較的「流血」の少ない勝利を勝ち取っている。
 2月革命の特徴は、大量の部隊が蜂起した労働者の側に移行したことである。プロレタリアートと兵士部隊という二大勢力が一つの力になったことでツアーリの専制政治を打倒できた。要するにツアーリには専制政治を防衛する決定的瞬間に「信頼に足りる軍隊(国家暴力)」を持ち得ていなかったということだ。
 ロシアのプロレタリアートとボリシェヴィキは、1905年―07年革命の時には、労働者と軍隊がバリケードを挟んで激しく対立していた。だが05年の第一次革命の敗北の経験をもとに、軍隊への意識的・計画的な工作を強化した。兵士の獲得という地道な闘いを忍耐強く推し進めた結果、大量の兵士・部隊がプロレタリア革命を担ったのである。そしてここに至る全過程は、同時に権力のボリシェヴィキに対する組織破壊攻撃との闘いでもあった。
 2月革命は、帝国主義戦争という情勢の中で起きた。2~3月の全過程で革命の指導的役割を果たしたのは、第一次ロシア革命と同じくプロレタリアートである。ペトログラード労働者の政治的ゼネストが革命の合図となった。1917年初めは、ロシア全体の革命運動がこのペトログラード労働者と軍隊の態度に規定されていた。ペトログラード郊外に配置されていた26万の軍隊の内、20万の兵士と40万の武器をほとんど持たない労働者が肩を並べて立っていた。ペトログラードは特別軍管区に分割され、司令官はツアーリ本営直属であった。1916年末には親衛連隊と歩兵連隊のかなりの部隊がペトログラードのプロレタリア区に意識的に配備され、首都の革命運動を圧殺する詳細な計画を練り上げていた。
 これに対決する形でロシア社会民主労働党中央委員会ロシア局は、首都守備隊各隊の軍隊内活動の強化に万策を講じ、ボリシェヴィキ組織の力を注ぎ込んだ。兵営内の兵士との直接の接触を確立するするために、労働者と兵士との交流、街頭で出会ったときの交歓、要するに兵士を労働者階級人民の側に引き寄せるためにできることは、可能な限り何でもした。一方、ボリシェヴィキは労働者に対しては、武器を入手するため、軍人仲間との連絡を利用することを勧告している。

 ツアーリに対するプロレタリアートの政治的ゼネストが兵士や水兵の革命運動への参加を促進した。1917年1月9日、ペトログラードでは14万5000人の労働者がストライキに決起した。戦時最大のストライキである。ストに続きデモが繰り広げられ、集会が行われ、オブーホフ工場では集会の強制解散に向け兵士に発砲が命じられたが、兵士は拒否した。2月14日の政治的ストには約9万人の労働者が決起した。革命運動は高まり、ボリシェヴィキの「戦争を国内戦(内乱)に転化せよ」というボリシェヴィキのスローガンが実践的な行動として開始されていた。2月23日(西暦3月8日)が革命の初日になった。これは自然発生的に始まった。

(写真 2月25日ソウル光化門の汎国民大会。労働者・農民・青年・市民らがパククネ弾劾・逮捕とファンギョアン代行退陣・財閥解体を求めるスローガンを叫び、夜は100万の民衆総決起ローソク行動が闘われた。3・4キャンドル集会にはソウル95万、全国105万の怒りが爆発した)

婦人繊維労働者のストがゼネストに拡大

 2月23日の国際婦人デーの集会当日、工場地区ブイボルグの婦人繊維労働者たちは自らのイニシアティブでストライキに突入し、周辺の工場に連帯ストを求めた。食糧不足は深刻になっており、パンを求めて行列が続いた。夕方までに労働者街はゼネストに拡大した。翌日、ストライキは市の多くの区に拡大し、市の中心部のデモでは、「パンをよこせ」に加えて「戦争反対」「専制打倒」のスローガンが掲げられた。25日、ストライキは全市に拡大。デモ隊と警官・軍隊との武力衝突が本格化し、その過程で軍隊の動揺と分岐が始まり、後に兵士と各部隊がこのゼネストと結合していった。2月革命はプロレタリアートと農民というふたつの階級が登場し、ブルジョアジーは最後の時期に、革命簒奪のために二つの階級と手を結んだに過ぎない。プロレタリアートの怒りは、デモに現れ、横溢し、街頭と広場を埋めつくした。
 まさにパク打倒の韓国の労働者民衆150万の怒りが街頭と広場を埋めつくしたように。
 プロレタリアートの決起は直ちにボリシェヴィキに引き継がれた。プロレタリアートの決起に積極的に結合し、共に突き進んだのはボリシェヴィキだけである。
 メンシェヴィキとエスエルは動揺し、決定的な一歩を踏み出さずに待機していた2月23日夜、ボリシェヴィキはストライキを支持し、さらに徹底的に拡大する路線を決定し、併せてさらに兵士の間での煽動の強化と労働者を武装させる措置を決定した。
 ペトログラード労働者30万人がストに参加し、ゼネストになった2月25日、ボリシェヴィキは全ロシア的政治ストのスローガンを掲げた。そしてボリシェヴィキ中央委員会のビラは、「万人すべてが闘争に起て!街頭に出よ!」と呼びかけ、前線で資本のために死ぬことを拒否し、労働者の自己解放という事業のために名誉をかけて闘い、個々別々の行動が全ロシア的な革命に、他の国々にでも革命に向かう衝撃を与える革命に進展させる時である、と熱烈に訴えた。
 同時にボリシェヴィキは、兵士に専制政治打倒の共同闘争のために蜂起したプロレタリアートの側に移るよう呼び掛けた。兵士の間では動揺が深まった。2月23日~26日、警察権力を援助するために召集された部隊が、ゼネストに決起した労働者に中立の態度を崩さなかった。一方、個々の兵士は公然とスト参加者に合流した。 スト鎮圧目的で市の労働者区に配置された部隊が最大に動揺した。兵営の周辺では即席の集会が開かれ、兵士に向かっては労働者人民に発砲するなと説得が行われた。
 2月革命初日にはペトログラード守備隊の多くの隊は、デモを解散させる仕事に警察権力とともに参加し、ツアーリの側で行動していた。それが崩れ始めていた。

(写真 日韓日本軍「慰安婦」合意無効と正義の解決へ)

労働者・兵士・農民の蜂起とボリシェヴィキの役割

軍隊の蜂起は一人のボリシェヴィキの決起から始まる

 2月25日夜遅く、部隊は秩序を確立するために武器を取れという命令を受けている。守備隊は戦闘準備を整え、市の中心は軍の野営地と化した。26日、ペトログラードの労働者のゼネストは、自然発生的に武装蜂起に転化し始めた。 デモと絡み合って武装した労働者の部隊が警察権力と戦闘を開始した。警察と正規軍部隊の砲火で抑え込まれていた武装した労働者の部隊はネウスキー大通りで市の中央部突破に成功。労働者に発砲せざるを得なくなった兵士の間で動揺が拡大した。ネウスキー大通りのデモ参加者を銃殺したパヴロウスク親衛連隊教導隊に怒った同親衛連隊第四中隊は26日夜、野営を出て騎馬巡査の隊列を銃撃。だがこの中隊は他の部隊の支持を得られず、帰営し自ら武装解除した。19人の兵士がペトロパヴロウスクの要塞に移送された。ツアーリは信頼できない大部隊を街頭に出さず、孤立させるという決定を下した。要するにツアーリは軍隊から見放されていることを自覚していたということだ。だが武装蜂起に転化したゼネストは、危険な時期を迎えていた。いかなる犠牲を払っても動揺している兵士をプロレタリアートの側に合流させなければ、革命は1905年の敗北と同様に「血の海」に沈められる恐れがあった。ボリシェヴィキは26日から27日にかけ最良の宣伝・煽動部隊を兵営に送り込んだ。徹夜でその日の出来事が論議され、「長いこと話し合った。われわれの中には、人民の圧政者に対する敵意と憎悪が高まった。・・・朝までには、われわれの中隊全体の説得が終わった」(フィンランド連隊兵士の回想)。
 27日の朝、警官隊から、また軍部隊の倉庫から武器を奪取したペトログラード労働者の大衆的武装が始まった。兵器庫からだけでも4万挺のライフル銃、3万挺のリボルバーが運び出された。27日の夜には蜂起した労働者に親衛隊三個連隊が合流した。
 プチロフ工場労働者のアジテーションに影響を受けたヴオルイン親衛連隊が蜂起した。同親衛連隊の兵士たちは兵営を出発し、リトワ連隊、プレオブラジェンスク連隊、次いでモスクワ連隊を味方にした。さらに予備工兵大隊も合流した。オラニエンバウムとストレリンでは、機関銃二個連隊が蜂起した。これらの部隊は28日の朝には、ペトログラードに到着した。首都の他の郊外区の守備隊も革命の側に移行した。これでフィンランドと北部方面軍からのツアーリ軍隊の不意うちの危険が排除された。部隊のなかでは、第308徒歩労働者革命部隊、プレオブラジェンスク連隊、第一機関銃連隊、装甲師団、工兵大隊などに所属するそれぞれ一人のボリシェヴィキが兵営内で活動を活発化させた。
 決起は常に一人から始まることがここでも示されている。

(写真 パク・クネ罷免。民主労総を先頭とする韓国労働者100決起が力でもぎった勝利だ。昨年10月末から134日、20回の集会に延べ1600万人が参加した。小さな叫びが、ひとつになり、巨大な喚声となり、政権を打倒する労働者の巨大な力となった。本当の闘いは、これからだ)

労働者のゼネストが兵士の決起を引き出す

 2月27日の夜、蜂起した労働者にさらに親衛三個連隊が合流した。兵士たちは武器を奪取し、いじめなどで兵士の憎悪の的になっていた指揮官をせん滅し、指揮はボリシェヴィキ兵士や最下級の将校に変わった。多くの将校は、軍隊に労働者の蜂起を鎮圧する力がないことを知り、兵営や兵舎に潜り込んだ。
 下級クラスの多くの将校が、決断し、労働者の蜂起に合流した。
 「2月27日、ロシアの王位を転覆させた親衛連隊が姿を現したとき、それは、自分たちの将校を擁していなかったか、擁していたにしてもその余り大きくない部分にすぎないかであった。これらの連隊の先頭に起っていたのは将軍たちではなく、蜂起を開始した兵士たちを味方につけた労働者群であった」(「大十月革命史」)。労働者のゼネスト・蜂起が兵士や部隊の決起を引き出したのである。

 1917年2~3月革命の期間で見ればロシア軍将校の15~20%が労働者の側についた。これらの兵士の多くは「己の信念」というよりも情勢を客観的に見据え、「己の戦術的判断」として労働者への合流を選択している。他の将校はプロレタリアートへの敵意を呑み込んで己の本意を隠した。
 2月27日は第二次ロシア革命にとって決定的な日となっている。労働者の蜂起に大量の兵士・部隊が合流した。27日の朝、労働者とともに起っていたのは1万人の兵士である。昼には約2万6000人の兵士が、そして夜になるとその数は約6万7000人の兵士・部隊が蜂起の側に移行したのである。
 労働者の蜂起に敵対する部隊の攻撃もあった。だが労働者・兵士の団結した戦闘力の前に降伏した。

(写真 17年3・1~4月末まで、史上最大規模の米韓合同軍事演習が、北朝鮮の体制転覆と、韓国ゼネスト圧殺に向け強行されている。これに自衛隊が参加)

蜂起に後戻りはない

 蜂起した兵士・部隊は労働者に次のように呼びかけている。
 「労働者同志諸君、軍隊は諸君とともにある。ここに第二次ロシア革命勝利の保証がある。後戻りはできない。後戻りすれば、蜂起した兵士を裏切ることであり、それは彼らを銃殺の運命におとしいれることである」と。
 開始した武装蜂起に後戻りは許されない。革命の勝利に突き進むことでしかプロレタリアートと兵士が生きられないことを強烈に訴えている。
 労働者・兵士・農民の革命部隊は、市の橋、主要駅、兵器庫、電信局、中央郵便局、そして一番重要な公共施設の奪取などすべての要地を制圧した。蜂起に決起した兵士たちは労働者とともに政治犯を解放した。
 2月27日の夜、ペトログラード・ソビエト結成大会(第1回会議)が開かれ執行委員が選出され、ソビエトは労働者とともに兵士も代表を選出した。同日、ペトログラード・ソビエト軍事専門委員会が編成され、武装した革命部隊の組織化とともに軍事的・技術的な諸課題の解決・遂行に着手した。ペトログラード労兵ソビエトは、その後、続々と結成される各地ソビエトの全国的中心となった。ペトログラード・ソビエトが蜂起した労働者人民と軍隊の権力機関になった。
 同時にプロレタリア革命をブルジョア的法枠内に押しとどめようとする国会臨時委員会も登場した。 臨時委員会は蜂起した兵士たちに直ちに兵営に戻り、武器を引き渡し、軍隊内に組織と秩序の回復を呼び掛けた。これは開始されたプロレタリア革命を武装解除させるブルジョアジーの大反動・反革命的登場である。リボフを首相とする臨時政府は、ソビエト副議長となったケレンスキー法相を除けば全員自由主義者によって編成された。だがボリシェヴィキと蜂起した労働者・兵士・農民は、このブルジョアジーの反革命を挫折させて進撃した。
 話を2月28日に戻そう。
 28日にはバルチック艦隊第二海兵団と親衛隊海兵団の水兵たちが、同じく、ネヴァ河に停泊していた巡洋艦・アヴローラ号の水兵たちが蜂起し、労働者の側に移った。正午までに政府軍部隊の抵抗が止まった。3月1日の昼、ペトログラード守備部隊全体が事実上、革命の側に移行した。クロンシュタットでも蜂起が勝利した。ツアーリの提督ヴィレン、ブタコフ、ニェペニンら人民迫害者は水兵・兵士によって制裁され、せん滅された。 バルチック艦隊の艦艇には赤旗がひるがえり、ゼネストと蜂起を鎮圧するための突撃部隊を編成するという企ても頓挫した。自分の軍隊に見捨てられたツアーリは降伏せざるを得なかった。3月3日夜、ニコライ二世が退位。労働者・兵士・農民の武装蜂起でロシアの専制政治が遂に打倒された。
 ペトログラード・ソビエトは、3月1日以降、「労働者・兵士代議員ソビエト」になった。3月中旬にはソビエトの兵士代議員は2000人に達し、労働者代議員は800人。兵士の決起のほどが示されている。

兵士の革命的創意「命令第一号」

 3月2日、ペトログラード・労兵ソビエトは、「ペトログラード軍管区守備隊に関する命令第一号」を出した。この歴史的な命令文書は兵士ら自身による革命的創意である。命令第一号により、中隊・砲兵中隊をも含む全部隊、全艦艇に対し、すべての武器を管理下に置く被選出兵士・水兵委員会が設立された。以後、部隊は、ペトログラード・ソビエトと兵士委員会にだけ従うことが表明された。命令第一号は、将校の称号を廃止し、兵士への横暴を禁止した。兵士はあらゆる市民権を得た。この「命令第一号」により、兵士に対する武装解除や将校に従属せざるを得なくするブルジョアジーの企みを見事に粉砕したのである。(後述)
 この「命令」は、兵士と民主的組織を将校団に真っ向から対立させ、軍隊内の階級闘争を激化させた。この命令は、前線の部隊にも広く行きわたらせた。
 兵士たちは指揮官を選挙によって決める制度を実行し、「命令」を超えて「軍隊の民主化」を自己解放的に前進させた。「命令第一号」は、兵士の階級意識を高めると同時に、兵士運動を推し進める大きな武器に転化した。
 ペトログラードの革命は、他の都市のプロレタリアートの蜂起の合図となった。兵士、部隊は労働者人民に武器を向けることを拒否し、いたるところでプロレタリアートの側への移行を選択した。団結した労兵は警察を破壊し、政治犯を解放し、旧権力者を逮捕し、ソビエトを設立した。3月1日から10日間に労兵代議員を統合した30のソビエトを含む130以上のソビエトが組織された。革命はこのように一気に前進する。

(写真 3・11から6年。原発いらない! 安倍倒せ! 常磐線の浪江延伸絶対阻止!の郡山集会に1100が決起。小児甲状腺がんはすでに185人。被曝と帰還強制に怒りのデモが行われた)

最前線に革命が波及

 2月革命は急速に前線にも波及した。ロシア軍中枢はツアーリ崩壊の事実を前線兵士たちに隠し、ニコライ二世の退位を自発的行為であると演出し、西部方面軍総司令官・エーヴェルトは、「部隊は、敵と相対して前方を見詰めるべきであり、振り返り、後方で、ロシア国内で起こっていることを見てはならない」という命令を出した。だが、このような兵士をなめきった命令が通用するはずがない。
 前線に近い都市にペトログラードやモスクワからアジテーターが派遣され、ビラ、「命令第一号」、革命的文献が運び込まれ、デモ、集会、会議など、すべての様子が兵営と塹壕の兵士を捉えた。
 軍隊の中では、兵士と反動的将校の間で激しい階級闘争が展開され、前線部隊内にも兵士委員会が設立された。ツアーリに忠実な将軍や高級将校が兵士によって更迭された。「命令第一号」は隊内改革の前進に対応すべく柔軟に事後届け出制を導入した。革命は国内と前線で急速に、縦横無尽に進行していったのである。
 これが労働者階級のゼネストが武装蜂起に発展するプロレタリア革命のダイナミズムである。2月革命はそれを世界に示した。

二つの「独裁権力」の激突

 2月革命は、「ブルジョア独裁」と「プロレタリア独裁」という二つの独裁権力が非和解に激突する新たな闘いを生み出した。
 3月2日、「臨時政府」という形を取った「ブルジョア独裁」とプロレタリアート・兵士・農民のソビエトの形を取った「プロレタリア独裁」の激突が始まった。エスエルとメンシェヴィキの指導者らは、「臨時政府」の政策を支持し、2月革命をブルジョアジーに売り渡そうとしたのである。
 臨時政府とブルジョア政党(カデット)は、ブルジョアジーの単一独裁権力の確立に向け全力を挙げた。具体的には革命の深化を解体し、旧ツァーリ軍隊の革命的変革を阻止することに全力を挙げた。
 そのためにペトルグラード労兵ソビエトのメンシェヴィキとエスエルの取り込みと屈服を迫った。
 一方、臨時政府は、「人民の自決権にもとづく恒久的な講和条約の締結」に賛意を表明しながら、実際の行動では、革命ロシアが連合国列強に忠実であることを表明し、戦争勝利の終結まで侵略戦争を継続する路線をとった。
 具体的には、①帝国主義戦争を継続し、労・農に対する階級支配を強固にするために、軍隊に対する権力はいかなる犠牲を払っても保持する、②軍隊を「政治の外」に置き、軍隊を革命的労働者人民から切り離し、軍隊内では社会主義の宣伝を認めない、③軍隊の戦闘能力を回復させ、幹部に対する兵士、水兵の無条件の絶対的服従を回復させる、④旧軍隊の根本原則には一切触れずに旧軍隊の「民主化」という外見をつくり出すような軍隊の改良を行う、というポーズをとった。乱暴だが、これは米帝トランプがこれから実行しようとしていることに、本質的に通底している。

(写真 韓国ゼネストに連帯し、3・4ダイ改ストに動労千葉・乗務員70人が突入!全国で動労総連合組合員がストを貫徹! 第二の分割・民営化粉砕! 安倍・小池打倒!1047名解雇撤回!全員を職場に戻せ! 前夜総決起集会2017/03/03)

メンシェヴィキ・エスエルの妥協路線と反革命

 メンシェヴィキとエスエルは、旧軍規の維持に関する幹部将官らの要求を支持し、反動的軍上層部の手中に無条件で全権を残すことを認めた。これは仮に体制が共和制的なものであったとしても実践的には、ブルジョアジーの総帥部が支配する軍隊の残存・維持を意味する。言うまでもなく、これはプロレタリア革命とプロレタリア独裁の軍隊ではない。メンシェヴィキとエスエルがとった路線は、軍事問題や内外政策、その他すべての問題においてブルジョアジーとの無原則的な妥協路線であり、反革命路線である。
 これは国鉄分割・民営化攻撃でJR総連カクマルが選択した道と同じだ。当然にもレーニン・ボリシェヴィキは、メンシェヴィキ・エスエルとの党派闘争を非和解的に激化させた。
 4月になって軍官庁は、兵士・水兵委員会を承認せざるを得なくなった。だが一方では、5月初めには「軍勤務者の基本的権利に関する規定」が発効した。この「基本的権利」とは、命令に不服従である兵士・水兵を銃殺刑に処する権利をも含め、軍司令官の主要なすべての権利を残す、という「宣言」であった。
 この「宣言」は軍隊における選挙の原則を禁止し、兵士・水兵の政治的権利の行使が認められのは内務期だけとした。これは2月革命で動揺し、グラついている指揮官らの権力を強化し、帝国主義戦争に軍隊を再投入させるための立法措置である。
 ボリシェヴィキと革命的兵士・水兵はこの宣言全体の破棄要求を突き付けた。だがメンシェヴィキとエスエルは、「全面講和条約の締結」まで侵略戦争を継続する擁護者としてどこまでもブルジョアジーに屈服した。レーニン・ボリシェヴィキは、このプロレタリア権力に敵対する反革命の仮面を剥ぎながら前進した。
 
 資本家は自分の利益のために戦争をする。その戦争を担う兵士とは、労働者と農民・市民である。 労働者の階級的利益は、侵略戦争とは100%相容れない。だから「軍服を着た労働者・農民」である兵士の「祖国擁護」や「自衛戦争」という誤った「信念」を変革することは100%可能である。 このことは、2月革命とそれ以後の革命の主体として飛躍した労働者・兵士・農民の闘いと革命の前進がそれを見事に示している。

 それはパク・クネを弾劾し、罷免を闘い取った韓国の労働者階級民衆がブルジョアジーのキャンドルデモの体制内化収束策動を断固、粉砕し、体制変革の革命勢力へと必ず飛躍することを示している。

粘り強い労働者の党へ

 プロレタリアートの側に軍隊を獲得するには、労働者民衆の利益と希望に合致したその時代の要求を粘り強く掲げ、一貫して主張し続け、長期の闘争でそれらに勝利することである。なぜなら労働者と兵士の利益は同じなのである。
 そしてプロレタリア・兵士の自己解放の革命という世界史的事業は自然発生的運動では絶対に勝利しない。目的意識的な革命闘争、非合法・非公然の強固な革命党の存在によってはじめて可能となる。それが革命党であり、ボリシェヴィキ労働者党である。2月革命当時で言えば、「人民に平和を!」「農民に土地を!」「労働者に工場を!」「ソビエトに全権力を!」である。
 今日的に言えば、「戦争絶対反対!安倍・小池打倒!」「民営化外注化阻止・非正規職撤廃・労働法制解体阻止!」 「全国に動労総連合を建設し、闘う労働組合甦らせよう!」「労働者に国境はない、世界単一の労働者党を建設し、ゼネストと国際連帯でプロレタリア世界革命へ!」だ。

プロレタリア独裁へ

 2月革命は、プロレタリアートの偉大な自己解放の道に立った最初の勝利にすぎない。だがブルジョア独裁をプロレタリア独裁に移行させる非和解の闘いと勝利の展望を確実に切り開いた。そのプロレタリア独裁への路線は、レーニンの「4月テーゼ」で宣言され、ボリシェヴィキ党の第7回(4月)ロシア協議会の諸決定のなかで確認された。その実践的組織的核心は、労兵ソビエト全体を革命的精神と「4月テーゼ」路線でボリシェヴィキが多数を獲得することである。それは革命と反革命・反動勢力との真っ向からの対決と激突に勝利するということである。
 ボリシェヴィキはプロレタリア国際主義の立場から、メンシェヴィキとエスエルの「祖国防衛をスローガンとする革命的な主戦運動」という帝国主義略奪戦争を擁護する正体をうまずたゆまず暴いた。  「祖国防衛」とか「革命的な主戦運動」という労働者民衆をたぶらかすスローガンを掲げても帝国主義侵略戦争の中身が変わるわけではない。帝国主義戦争が帝国主義戦争でなくなるのは唯一、プロレタリア独裁だけである。ボリシェヴィキはこれ以外の方法では労働者階級民衆は、帝国主義戦争からも、また同じく、帝国主義的、強盗的な講和からも、抜け出すことはできないと訴えつづけた。ボリシェヴィキがプロレタリアートや貧農、すべての被搾取者に呼びかけたのは、混乱や反乱ではなく、プロレタリア独裁への意識的な革命闘争だ。人民の大多数に属する権力だけが、資本家のくびきを一掃する。唯一、プロレタリア独裁への革命闘争が反動と反革命的決起を打ち破り勝利することを、ボリシェヴィキはその後の幾多の戦闘で実践的に証明し、10月革命の勝利へのぼりつめた。 了