会報 第45号

2017年01月10日発行  第45号 会報45号.pdf

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ロシア革命から100年

ゼネストと兵士の組織化で

軍隊の革命化へ

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2017年 革命の扉は開いた

ボリシェヴィキの反軍活動

滝山

開始された隊内反乱

安保関連法制の強行成立、南スーダンPKOの駆け付け警護任務付与、そして朝鮮戦争の切迫情勢下、日帝・安倍政権は戦争と改憲に突進している。
このような情勢下で昨年、海自の遠洋軍事訓練の航海で2名の下士官が抗議の自殺を行った。これは自殺という苦衷の選択をもってする兵士の怒りの隊内反乱である。
遠洋航海は防大卒業者ら若手幹部の実戦的訓練を目的に行われる。今回は護衛艦「あさぎり」、練習艦「せとゆき」、同「かしま」で編成され、尉官クラスの若手幹部約190人の他、海曹クラスの下士官ら一般乗組員を合わせた計約750人が5月下旬、日本を発った。3隻は米・欧州・アジア各国で寄港し昨年11月初旬に帰国した。半年間にわたる訓練航海である。
抗議自殺をしたのは「あさぎり」と「せとゆき」に乗っていた20歳代と30歳代の男性下士官だ。一方、今回の航海中に複数の兵士が抗議の下船を申し出るという異様な事態も起きている。これは安倍政権と戦争法の破産である。
海の上は逃げ場がない。兵士の怒りを軍隊の革命化にむけた闘いに転化しなければならい。

ロシア革命から100年。2017年を真に韓国ゼネストと連帯できる闘いと力をつくり上げよう!
核心は、国鉄決戦―外注化阻止・非正規職撤廃、学生運動の全国拠点化、1000万と結びつく力で都労連決戦と都議選で安倍・小池打倒の巨大な前進を闘い取ろう!

動労総連合の全国化を基礎に  軍隊の革命化へ

戦争と革命の時代こそ、動労総連合の全国拠点建設の前進を軸に軍隊の革命化の闘いが真剣に求められてるいることを真正面ら見据え前進し、闘い取ろう!その条件はすでに熟している。
2017年は、戦後世界の崩壊をさらに破壊的に推し進めるであろう米帝・トランプの登場という世界情勢と、韓国ゼネストによるパク・クネ打倒情勢が到来し、そして日帝安倍は、政治・経済・外交の全分野での総破産を戦争と改憲、新共謀罪攻撃で延命せんとあがきにあがいている。
2017年は朝鮮・中国―世界核戦争の危機を、世界単一の労働者の党を建設し、国際連帯の強化で全労働者・全人類の人間的解放へと突き進んでいく歴史転換の年となる。1000万と結合し、その力で日帝・安倍を打倒し、プロレタリア世界革命へ突き進もう!

今号は、1917年10月のロシア革命に勝利したレーニン・ボリシェヴィキが前年の1916年、労働者と兵士の団結、最前線の兵士、予備軍、隊内兵士らとの共同的団結をいかに戦い取って行ったのかを革命戦略の視点から俯瞰し、課題を鮮化したい。少し乱暴だが、誤解を恐れずに言えば、ボリシェヴィキの反軍活動は文中の「兵士」を現在の全職場の「労働者」と読み換えても、誤りではなかろう。

(写真 2016年11月6日、日本・韓国・米・独の労働者が結集した国際共同行動のデモ(日比谷野音)。共同行動は11・14韓国ゼネストへと!)

マルクス主義と国際主義の堅持

1914年7月19日(8月1日)に勃発した第一次世界大戦は、世界の総人口の約4分の3にあたる15億人余りの人口、38ヵ国を戦争に引き込んだ。
ロシアは1500万以上の労働者・農民・市民を軍隊に動員した。成人の約半分が軍隊に動員された。
戦争は人民に多大の犠牲、新たな負担と窮乏、飢餓をもたらし、ロシア帝国のあらゆる矛盾をいっそう激化させ、全人民の革命への希求を促進させ、階級闘争をいっそう激化させた。同時に戦争は国際労働運を厳しい試練の前に立たせた。
第二インターナショナルはプロレタリア国際主義の原則を投げ捨て「祖国擁護」を労働者に呼びかけ、社会排外主義に転落した。ロシアではメンシェヴィキとエスエルのかなりの部分が公然たる「祖国防衛・社会排外主義」の立場に立った。中間的的勢力は「戦争の中止」のためにだけ努力し、祖国防衛や戦争論者と手を切ることを拒否した。レーニン・ボリシェヴィキ党だけが革命的マルクス主義とプロレタリア国際主義の原則を守る立場を堅持した。
レーニンは、戦争という新たに生じた事態の下では、あらゆる革命政党にとって唯一の正しいスローガンは、交戦双方のいずれも不正義の戦争である帝国主義戦争を国内戦に、つまり革命に転化させるというスローガンであると強調した。レーニンは小ブルジョア平和主義者とは対照的に講和条約の締結と革命的転換とを結びつけるために労働運動の前進・職場権力の確立と労働者の武装闘争―国内戦の中に帝国主義戦争から脱け出す道を見い出していた。「銃剣の時代がやってきた。これは事実だ。だからそういう武器によっても闘わなければならない」(レーニン全集第49巻「ア・ゲ・シリャプニコフ宛て書簡」)。
帝国主義戦争を国内戦に転化させるというスローガンからは、もう一つのスローガン、自国政府を敗北させるというスローガンも出てきた。レーニンはすべての交戦国の革命的社会主義者にこのスローガンの実践を呼び掛けた。「政府軍が敗北することは、その政府を弱体化させ、それに隷属させられている人民の解放を促進し、支配階級に対する国内戦を容易にする」(同第26巻「ロシア社会民主労働党在外支部会議」)と呼び掛けている。
レーニンはまた、スローガンを個人的なテロ行為、将校の殺害、陰謀、サボタージュ等々の呼びかけと解するアナーキスト的解釈にも公然と反対を表明している。
戦争の時代には、帝国主義への政治的支持はいかなるものであろうと断固、拒否し、反戦的煽動を常に繰り広げ、国内ではブルジョアジーとの闘争にプロレタリアートと農民・市民を起ちあがらせ、最後には、軍隊を系統的に革命化させるということをレーニンは強調している。戦争の時代にレーニン・ボリシェヴィキは、これらの課題を遂行するために徹底的に戦った唯一の労働者の党である。「プロレタリア的革命家は、あらゆる注意を軍隊の革命化に、ブルジョアジーの帝国主義強盗どもに反対して軍隊を活用することに向けた。・・・ボリシェヴィキは1914年8月以降、自分のあらゆる宣伝、煽動、非合法の組織活動によってこのことのための準備をした。確かに社会主義の裏切り者ども、どの国にもいたシャイデマン、カウッキーの類の連中は、このことを理由に、ボリシェヴィキの煽動を軍隊の解体という空文句で片づけはした。しかし、われわれは、自分の義務を果たしたこと、わが階級敵の力を分解させ、搾取者に反対する闘争のために武装した労働者、農民をわが階級敵から奪い取り自分の義務を果たしたことを誇りに思っている」(同第40巻「憲法制定会議の選挙とプロレタリアートの独裁」)。
ボリシェヴィキ党は、戦争勃発の初日から、次の課題を自らに課した。それは、軍隊を支配階級の思想的影響から切り離し、戦争の反労働者的、反人民的性格について兵士に確信をもたせ、兵士に労働者階級人民の側に移る準備をさせることである。軍隊の革命化の本質は、戦場での殺人に正義の報復をし、同時に労働者階級人民の真の擁護者になる新しい革命的な軍隊の要素を帝国主義軍隊内部に創出することである。それは可能であり、ロシア革命でレーニン・ボリシェヴィキがそれを証明した。この戦いは職場においても本質的に同様である。

そしてロシアの軍隊の戦闘能力の低下は、ツァーリ政府自らの手で惹き起されたということである。ツァーリ政府はロシア軍の兵士に衣食と武器を与える能力さえなかった。まさに、ロシア軍の戦闘能力の低下は専制政治が生み出したものである。ツァーリの専制政治が軍事機構全体を腐食させていた。「国家の防衛」を金儲けの源泉や汚い投機行為に変えたツァーリズムとブルジョアジーども自らが軍隊の能力低下を引き出していたのだ。これは階級矛盾の帰結でもある。これは現在の米帝と米軍、軍隊の民営化による「軍隊の崩壊」という現実と本質的に同一である。
軍隊の革命化は、軍隊の解体を促進する。軍隊の解体と規律の弛緩は、革命勝利の条件であると同時に革命化の結果でもある。この解体自体の中に、すでに創造の要素がある。労働者階級人民を弾圧し、搾取する道具としての帝国主義軍隊の破壊とプロレタリア革命の新しい労働者・農民の革命的軍隊による代替にむかう下準備が反軍闘争であり、その前進である。

(表 1990年と2015年の兵力数を比較すると自衛隊は増加しているが、米欧帝国主義は、「冷戦終結」後に激減している。仏・英・伊・独は半減もしくは半減以下になり、自衛隊よりはるかに少ない兵員数である。ドイツ陸軍・海軍は陸自の半数以下だ。実に驚くべき数字である。 2016年版「ミリタリー・バランス」より)

帝国主義戦争を国内戦・革命に転化せよ

レーニン・ボリシェヴィキは戦争勃発初日から、兵士に武器を自分の階級的兄弟にではなくブルジョア政府に向けよと呼びかけた。そして党と党員に対し社会主義革命の宣伝は銃後の国内だけではなく、軍行動の全ての舞台においても展開することを強調した。「あらゆる国の軍隊の中に、あらゆる国語でこうした宣伝をするための、非合法の細胞やグループを組織すること」が無条件に「必要である」(同第26巻「ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義派の任務」)とし、その際、レーニンは戦争反対のゼネストや兵役忌避に関する提案が実現不可能な計画であるとした。なぜならロシアでは軍隊の圧倒的多数の部分は「敵から祖国を擁護しなければならないと心から信じていた農民」から成っていたからである。ストライキは、それが一挙にすべての交戦国に波及した場合に初めて勝利のチャンスを労働者階級は手にすることが出来るのである。
ロシア革命から100年後の今日、新自由主義・帝国主義は世界中に膨大なプロレタリアートを生み出した。ゼネストを不可避とする階級情勢と階級矛盾を激化させ、一方では戦争と革命情勢を成熟させている。まさに新自由主義の総破産は朝鮮戦争の切迫情勢と世界核戦争情勢に突入し、今日、プロレタリア世界革命は、世界単一の労働者の党の建設とゼネストで革命を闘い取れる情勢として成熟している。
「われわれの観点からすれば戦争に行くことは誤りではない。しかし、軍隊内の煽動にとってはどうか? 戦争を国内戦に転化させることにとってはどうか?」(同27巻「帝国主義論ノート」)、「いったん戦争が勃発したなら、そこから離脱することは考えられない。そこに行き、社会主義者として自分の仕事をしなければならない。戦争では人々は考え、ためらう。軍事行動の舞台では家で以上にそうであろう。そこへ行き、最終目的に向かってそこでプロレタリアートを組織する必要がある」(同第26巻「プロレタリアートと戦争」)。軍隊内で階級闘争を宣伝し、共同的団結を生み出し、戦争を国内戦に転化し、ブルジョア支配階級の打倒を宣伝・煽動することは社会主義者の直接の任務なのである。

塹壕・軍隊内での共同的団結の始まり

1915年初頭、当時フランスにいた女性ボリシェヴィキ、エス・イ・ゴプネルはロシア人義勇兵に戦争の諸問題に関するレーニンの立場を話すため接近し、ボリシェヴィキの新聞「デモクラート」の何号かと文献を送った。そしてレーニンへの手紙でロシア人義勇兵が前線でまず兵士の自発的な休戦条約を、次いで講和条約を締結する必要性を説いていると知らせている。フランス人兵士とドイツ人兵士とが戦いを離れて交歓する「事件」が起きた。こうした方法で戦場の兵士たちが戦争に対する自然発生的な自分たちの抗議を表明した、という報道がヨーロッパの新聞紙に初めて登場したのもこの頃である。
ボリシェヴィキ在外支部ベルン協議会では、「塹壕内での、一般には戦場での交戦諸国兵士の戦争離脱・交歓を支持する」必要に関する決定が採択された。レーニンはこうした戦争離脱・交歓のなかに、帝国主義戦争を国内戦に転化させる道に立った最初の第一歩を見た(同第26巻「ロシア社会民主労働党在外支部会議」)。
ボリシェヴィキは党員に戦争動員を忌避するなと勧告した。1915年6月、ツァーリ保安課の報告書は、「平服の煽動者を部隊内に浸透させることが困難になったので、ラトヴィアとリガでは、そうした志願兵の数がすでに200人に達している」と記している。
ボリシェヴィキが志願兵として軍隊に入隊・潜入することが稀ではなかったのである。ボリシェヴィキの各委員会は、部隊内活動については、ストライキに参加したことを理由に兵役に服せられたり、国家総動員令で軍隊に召集された党員に主として期待した。前線に向かった多くのボリシェヴィキ党員は、所属党組織との非公然的連絡を保持し、そこから反戦文書・指示などを受け取っていた。

(写真 韓国浦項で最大の米韓強襲上陸訓練に参加した兵士たち、やる気がない表情がはっきりと表れている。2016年3月12日)

戦時にはボリシェヴィキの軍隊内活動は、特別に重要な意義を持っていた。軍隊にはあらゆる人民諸勢力が動員・吸収されていた。当時のロシア軍は、基本的には農民的であったが、戦時には軍隊におけるプロレタリア層が大幅に増加した。これが農民兵士との共同性と階級的団結が生まれ兵士間での革命的気分の高揚・強化をもたらした。軍服を着た各民族の労働者、農民は前線と兵営での生活の重荷を経験するとともに被抑圧階級としての階級的利益の共通性を意識し始めた。軍隊組織とはそういうところである。軍隊組織・軍機構は、プロレタリアートがブルジョアジーに対する自己解放運動を実践的に指導する役割を担い、労働者・農民、各階層のプロレタリア的同盟を鍛え上げる役割を果たす戦場となったのである。

ボリシェヴィキは強烈な打撃をこおむりながらも 力強く進撃

一方、戦争は同時に、ボリシェヴィキの軍隊内活動を極めて困難にした。兵士間での、特に遠征軍での煽動・宣伝を困難にした。当然、部隊内での反戦宣伝、戦争の国内戦への転化を煽動する者は誰彼なく野戦軍法会議にかけられる危険性にさらされた。後方部隊における活動も戦時には以前よりはるかに困難になる。ヨーロッパ、ロシアの50の県の内、30県とカフカーズ、トゥルケスタン軍管区は、戦時編成になった。これらの地では、軍当局が裁判、刑罰を執行した。それ以外は厳戒状態に関する法令により隊内治安弾圧が強化され、ボリシェヴィキの隊内活動が困難に陥った。
ボリシェヴィキの多くの党組織は、戦争直前と戦争当初の数か月間に破壊された。数千人の先進的労働者が投獄され、第四国会のボリシェヴィキ議員は裁判にかけられシベリア流刑に処せられ、党の機関紙は禁止された。排外主義の宣伝が激しく強化され、軍隊内では将校下士官幹部と僧侶が宣伝を強化した。宣伝の中身は、ボリシェヴィキはドイツの為に行動しているとか、軍隊の任務は祖国を擁護・防衛することであり、政治に関心を寄せることではない、上官の命令は素直に従う、などということが執拗に繰り返し吹き込まれた。 戦争初期の段階ではドイツに対し急速に勝利することを期待していた幾十万兵士の意識を愛国主義でからめとろうとした。
前線と国内での革命的煽動・宣伝にたいしては憲兵隊の機関、部隊内情報(防諜特務)機関が強化され、「以前初等学校教師、学生、工場労働者、製作所労働者であったものから自分たちの部隊内細胞を募っている革命的組織の破壊活動のあらゆる試み」(大十月革命史・第一巻)の取り締まり強化と根絶・解体のための摘発攻撃が強化された。軍隊内には様々な左翼的勢力がいたのである。
だが、極めて困難な条件下においてもボリシェヴィキの活動は、中断されることなく、戦争の勃発の最初の日から絶えず拡大されていった。戦時という特殊な条件、軍隊内構成員の短期の交替、兵士の思想や行動に対する厳重な監視、一方での党指導部の不足、特に戦争初期の党指導部の不足が革命的な軍事組織の形態を規定した。
通常、数人だけからなる非常に小さな移動細胞であった。これらの細胞の数は当初、多くはなかったが、兵士、水兵の革命化への過程で貴重な役割を果たした。多くの場合、陸軍、海軍内での活動は、やはり、ボリシェヴィキ党員、社会民主主義者が独力で推し進めた。
これは資本との戦場である職場の活動が一人ひとりの力で始まるのと同じである。程度の差はあるがボリシェヴィキは軍隊のあらゆる環、召集所、配兵所、後方守備隊、予備軍、前線で軍事作戦行動を執っている部隊に至るまでのあらゆる環で革命的煽動・宣伝で兵士を徐々に獲得することに成功していったのである。

(写真 軍隊のデモ隊への襲撃を描いた絵画 1905年1月9日「血の日曜日」)

機関紙と宣伝・煽動が武器

ボリシェヴィキの思想は二本の主要経路を通して浸透していった。
一つは機関紙・ビラを通じてである。いま一つは口頭・アジテーションによる煽動を通じてである。
ボリシェヴィキは戦争の32ヵ月間(1914年7月末から1917年3月まで)に、印刷部数約200万部、600種類以上のビラを発行した。そのかなりの部分が陸軍と海軍内に持ち込まれたのである。
その多くのビラは兵士、水兵に直接、呼びかけている。ビラは気取らず、誰にもわかる言葉で戦争の真の原因、政府とその同盟者・ブルジョアジーの強盗的計画が暴かれている。
ボリシェヴィキは、ロシアの経済的混乱、民族的抑圧、警察国家をもたらしている専制政治の反労働者的、反人民的国内政策の正体を暴いた。また、「信念、ツァーリ、祖国」のために「命を惜しむな」という軍当局の教育・宣伝のでたらめ性を証明した。
ボリシェヴィキのビラは次のように書かれている。「・・・ここにはわれわれの祖国はない。ここでは、苦役、牢獄、シベリア流刑が労働者の運命である。ここでは一歩歩むごとに銃殺された人々の墓標にぶつかる。ここでは今もなおストライキ参加者に銃口が火を吹いている。・・・われわれの祖国はツァーリも奴隷もいないところにある。われわれの祖国のための闘争、つまりツアーリズムと資本主義的搾取の打倒をめざす闘争の中でのみ、われわれの、自分の血を流す覚悟があるし、われわれの抑圧者=殺人者の血を流させる覚悟があるのである」(「1914年~1917年の陸軍、海軍における革命運動」)と。労働者階級人民の凶悪な敵である支配階級の敗北・打倒を希求せずに「祖国を擁護することは出来ない」と強く呼びかけている。
ビラ、檄文はロシアの労働者、農民が一握りのロシア人、一握りのイギリス人、一握りのドイツ人、一握りのフランス人の資本家、地主の私利私欲のために、自分たちの階級的兄弟であるドイツ人の労働者、オーストリア人の労働者を殺さなければならない戦争の不正義・不条理を余すところなく暴いた。
ボリシェヴィキは宣伝の中で兵士の焦眉この上ない諸問題にも慎重に触れている。糧食と弾薬の欠乏、軍幹部による官給物品の着服、軍幹部の粗野・専横、兵士への暴力・いじめ、体刑の適用、兵士の家族が余儀なくされている苦難の現実・諸問題など、これらすべてがビラや座談のテーマになった。

(写真 韓国支配階級への怒りは、ローソクデモから松明デモへと怒りは拡大  2016年12月3日)

予備軍兵士の獲得へ

 大都市に配備されている予備軍には、革命的活動と組織化にもっとも有利な条件があった。兵士たちは比較的親しく、頻繁に労働者と交際し、お互いの気持ちを感じ取り、戦争と負担に高まっている人民の不満をかなり強く感じ取っていた。ボリシェヴィキにとって予備軍内への活動は特別な意義を持っていた。なぜなら、遠征軍・最前線への補充はまさに予備軍からなされるからである。

ボリシェヴィキは、兵士、水兵との直接の接触を確立するためにどんなに小さな機会をも逃さず活かすために行動した。動員されて来た人々を座談に持ち込み、軍幹部らに気付かれぬよう予備兵の間にビラを配布するために慎重に努力し、反戦の煽動は軍用列車の中でも続けられた。
ビラ・機関紙は小包や贈物と一緒に塹壕に持ち込まれ、病院から復帰した兵士や、休暇を取った兵士もビラを身に着けて運んだ。1914年12月には、ロシア軍幹部は「補充部隊が到着したことにより、部隊内には社会主義的宣伝の兆候が現れている」(同上)と危機感を表わしている。

軍隊内非公然活動

部隊内非公然活動の技術は、徐々に、絶えず、改善されていった。ボリシェヴィキは極めて多種・多様なルートを通じて軍隊に定着していった。例えばシベリア流刑から脱出したエム・ヴェ・フルンゼはミンスクの全ロシア地方自治連盟管理部の統計係に潜り込んだ。党の任務を帯びていた。
これによりボリシェヴィキは西部方面隊で大掛かりな活動を繰り広げることが可能になった。また全ロシア都市同盟の衛生隊、赤十字組織、北部方面軍の都市同盟の委員会などでボリシェヴィキ党員が活動している。さらに党員が直接、遠征軍に入り、模範的兵士とたがわぬ努力を払い、真面目で、規律を守り、兵士間での信頼と権威を得るために努力している。ときには軍幹部の信頼を得るという事態も起きている。これらの努力が革命の側への軍隊の移行を準備するのを容易にしたのである。

ボリシェヴィキは強烈な打撃をこおむりながらも、戦争という条件下でも、強靭な意思と信念、高度な戦闘能力を維持していた。
1915年夏までにはほとんどすべての地方の党組織が再建された。再建された地方党組織は、それぞれの地区で全活動を展開した。ペトログラード・ボリシェヴィキは、何よりもまず首都守備隊、北部方面隊、バルチック艦隊に影響を拡大して行った。

1915年春にロシア社会民主労働党ペテルブルグ委員会のもとに再建されたヴォエンカ(軍事委員会)は、経験豊かな党活動家を先頭に立て、多くの連隊、クロンシュタット、ヘリンシグフォルス、スヴェアボルグ、レヴェリ、リガその他の地方に展開していた部隊やバルチック艦隊の艦船との連絡を確立している。
北海艦隊ではラトヴィア人社会主義者も積極的な活動を展開した。西南部方面軍とキエフ、ハリコフ、クレメンチューク、エカチェリノスラフの後方部隊とが、ウクライナ・ボリシェヴィキ組織の煽動・宣伝の対象になった。
周知のようにモスクワ・ボリシェヴィキは、モスクワ守備隊内でロシア革命への活動を展開した。

(写真 1905年6月、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの水兵が反乱。戦艦を占拠した。5月にはバルチック艦隊が(写真 日本海で敗北。艦隊には多くのボリシェヴィキがいた)

プロレタリア革命が塹壕に芽生た

兵士の間ので煽動・宣伝による軍隊内活動は前線でのツァーリ軍隊の敗北・大敗に比例して容易になった。戦争初期にあたる1914年の秋、早くも二つのロシア軍部隊が東プロシアで粉砕された。 これにすぐ続いてガリツィアで短期の勝利が収められはしたが、頼りない勝利であった。
翌1915年春にはロシア軍部隊の防衛線が突破され、全戦線にわたり退却が始まった。これらの敗北は専制政治の腐朽性、技術的=経済的立ち遅れの結果でもあり、一方では軍統帥部の戦略的破綻と誤算の結果でもある。前線のロシア軍には装備、弾薬、糧食、訓練された予備軍が届かなかった。戦争1年目を終えたのちに陸軍大臣ポリヴァノフは閣議で、軍隊の状況を「大混乱と茫然自失でいっぱいの光景」であったと報告している。

これとは逆にボリシェヴィキの軍人ア・エム・ピレイコは、「自軍の退却、そしてその結果としての軍隊の解体は、否応なしに兵士の頭を働かせ、新たに生じた事態から脱け出す道を探究せざるを得なくする。こうした時には、軍隊内の一人の煽動者は、銃後にいて何もかも揃った委員会よりも党にとって貴重なものであった」(ピレイコ「帝国主義戦争の前線にあって」モスクワ・35年刊)と戦場・塹壕における一人のボリシェヴィキの存在の大きさと重要性を語っている。これは職場・生産点でも同じだ。
戦場での度重なる敗北は軍隊を怒らせ、兵士の中に帝国主義戦争についての絶望感、犠牲の無意味性という思いを定着させ、平和への憧れと希求を自然発生的に生み出す。戦争初期の数か月間は、「愛国主義的」衝動が高まっていたとしても、敗北と疲弊・疲労は支配階級への怒りに、そしてその怒りは公然たる抗議の行動に転化する。

前線からの手紙には専制政治に対する憎悪、戦争での疲労、裏切られたロシア支配階級への憤りなどが痛みを伴ってますます強くなっていった。無名の一兵士は書いている、「私は、これほどの専横と不法、これほどの卑劣漢の将校が許されているわがロシアのような国は世界にない、と思います。・・・私はいま、現在の戦争を自由と踏みにじられた権利のための戦争として描いている新聞の論文を、大いに冷笑し、軽蔑しています。それらはいずれも嘘ですし、二枚舌の美辞麗句です。・・・われわれの真の敵は、ロシアのなかにいるのです。・・・」(「世界大戦と二月革命の時期のツァーリ軍隊」32年刊)と。
戦争の歳月が流れ、長引くとともに、兵士の心理に変化がおこり、階級意識が高まる。本当の平和は、兵士自身が行動するときに初めてもたらされるという信念が強固になっていく。塹壕の中では、「ロシア国内ではやがて戦争が起こるであろう」(同上)と、またツァーリズムの専制政治のあらゆる犯罪に報復する時が接近していると、公然と語られ始めた。ツァーリの軍隊、帝国主義軍隊を革命化させる二つの要因、つまり、兵士の自然発生的な不満と怒りの高まり、これとボリシェヴィキの革命的煽動が一つに結合する重要な過程が前線と塹壕で進行して行ったのである。
軍隊の解体は、1915~1916年に将校団内で進行していた重大な変化を促進した。度重なる敗北は、主として貴族出身将校・下士官幹部を駆逐し、若い、特に比較的民主主義的で、専制政治に比較的忠実でない幹部に取って代わっていった。部隊には、戦場経験がなく、急ごしらえの指揮官がますます多く登場することになった。これが将校らの権威を急激に失墜し、規律の弛緩も生み出した。 1915年8月の閣議では、「軍隊が軍隊であることをやめ、革命的人民に変わった」(「帝国主義戦争時代のツアーリの軍隊」29年、モスクワ刊)と述べられるにまで軍隊は解体し、革命化が進行していたのである。一方、将校・下士官の民主化の過程でボリシェヴィキが将校の資格を得る道が開かれていた。
彼らはツァーリの軍隊の中で必要な軍事知識と軍事的経験を積み重ねたのである。そしてボリシェヴィキが指揮した部隊がのちに、17年10月革命の強固な砦・労働者階級の軍隊になった。

国内で革命闘争が激化

最前線の敗北が一因

最前線の戦場の敗北は、ツァーリズムに対する憎悪をかき立てた。1915年秋にはロシアで再び革命の嵐が吹き始めた。軍隊の召集時には、ペトログラード、モスクワなど各県で動員された兵士、人々の反政府的行動が起こり、前線に向かう途中での新兵の脱走は大衆的性格を帯びていた。兵士の集団的投降事件も頻繫に起きた。1915~1916年に脱走兵・召集拒否は150万人に達し、捕虜は200万人に達していた(第四国会・ロジャンコ議長の告白)。

脱走・召集拒否・自傷行為・自発的投降などは、戦争に抗議する兵士の最初の抗議形態である。1914年末には、南西部方面軍とカフカーズ方面軍で兵士の公然たる騒乱事件が起きている。それは先遣隊を拒否するまでに発展した。1915年秋には自然発生的な反戦行動が全人民的性格を帯びるに至っている。この時期は、陸海軍のボリシェヴィキの活動規模が意識的に拡大された。ボリシェヴィキの党基幹幹部が強固に保持されていたパルチック艦隊の党的活動がもっとも徹底的に展開された。
クロンシュタットでは、各艦船、各沿岸部隊にいた個人、サークル、支部など秘匿された組織が非合法のロシア社会民主労働党船舶集団本部を頂点につくり上げられた。このボリシェヴィキ・センターで積極的な活動家になったのがバルチック艦隊第一海兵団の労働者下士官、砲兵下士官、水兵、砲兵練習部隊下士官などである。ボリシェヴィキ・ペテルブルグ委員会との連絡は、軍事員会メンバー(元ポチョムキン水兵)を通じて保持された。15年末には、ボリシェヴィキ細胞とグループは23隻の艦船と沿岸7部隊で活動するまでに拡大していた。ボリシェヴィキの活動が保持され拡大したのは、「下士が著しく成熟していたこと、この艦隊には地下活動に熟達したものがいたこと」(憲兵)である。そしてこの時期、バルチック艦隊の水兵の半分が労働者と都市プロレタリアから成っていたという条件がある。
艦隊のボリシェヴィキ組織は、非公然に活動を展開した。指導部メンバーの総会は、失敗をさけるためにほとんど開かれなかった。組織をさらけ出すおそれのある時期尚早の中途半端ないかなる行動にも参加しないことが決定されている。艦隊ボリシェヴィキは武装蜂起を、プロレタリアートと革命的軍隊の共同の総蜂起の結果でなければならないと規定し、位置付けていた。
それでもなお水兵の自然発生的な行動は1915~16年を通じてみれば、バルチック艦隊では11回の行動が起こっている。粗悪な食事と士官の嘲笑に激怒した水兵が起ちあがっている。1916年には軍艦内軍事法廷で400人を裁判にかけている。

ボリシェヴィキの活動は激しい攻防の中で展開されている1915年12月、警察は挑発分子を通じて、船舶集団本部の手がかりを偶然つかみ、指導者たちを逮捕した。この逮捕によりパルチック艦隊内ボリシェヴィキの軍事組織の活動は停滞するが、16年初頭には再び艦隊内にペテルブルグ委員会のビラが配布され、7月にはボリシェヴィキの新しいセンターであるロシア社会民主労働党クロンシュタット軍事組織集団本部が創設された。ビラには労働者人民、軍隊が共同で武装蜂起を組織的に準備することの必要性、個々バラバラの暴動では兵士、水兵にとって破滅的であるという思想が押し出され、それがビラに貫かれている。ビラは水兵たちに、力を蓄えよ、非組織的な行動を抑えよ、自分の行動をプロレタリアートの行動と一致させよ、と呼びかけている。ボリシェヴィキは艦隊内で自立的に行動しようする水兵グループや半アナーキスト的水兵グループとも粘り強い党派闘争を闘っている。
そして、1916年末にはクロンシュタットは、「制服に身を包んだ火薬庫であり、そこでは、すでに導火線が燃え終わっていて、直ぐにも爆発の音が鳴り響くに違いない」(ツァーリ)との危機感を表わすまでにボリシェヴィキの軍隊内活動は突き進んでいたのである。

(写真 パク・クネ打倒へ決起した232万人の韓国労働者の怒りのデモ、道路を全面制圧した。 2016年12月3日)

117万2千人の労働者がストに決起

1916年、ツァーリ・ロシアの戦略的地位は引き続き悪化した。前線も銃後・国内も戦争の過程で自らに負わされた重荷にツァーリは耐えられなかった。
経済上の混乱はプロレタリアートと農民にますます重苦しく影響し、戦争は労働者民衆の困窮と不幸を計り知れないほど高進させ、専制政治とブルジョアジーに対する闘いが激化し、革命情勢は熟していった。
1916年の労働者階級のストライキ決起が戦争初期と比較すれは、それを明確に示している。1914年8月から12月までに全国でのストライキに決起した労働者は4万人足らずであった。1915年9月にはそれが11万4000人に拡大し、1916年5月には15万4000人、そして1916年全体では117万2000人の労働者がストライキに決起している。戦時下でロシアの労働運動が激しく闘われ、かつてなく拡大し、高揚して来たことが示されている。
第一次ロシア革命の時代と同様に労働者が社会のヘゲモニーを握り始めていた。農村でも1916年に全国で農民の決起がおよそ300回、起こっている。
兵士、水兵の間で、ボリシェヴィキの煽動・宣伝が容易に受け入れられる情勢が進んだ。ストライキに決起した労働者は、陸から外すということで海軍に編入されたが、新しい召集が陸軍、海軍のなかにボリシェヴィキの宣伝の普及を助けた。動員兵は前線と塹壕にプロレタリア革命の思想を運び込んだのである。
1916年末には200万人以上の兵士が集中していた後方勤務部隊に、労働者階級のストと拡大した農民運動が影響を与えた。ボリシェヴィキの軍隊の革命化を促進させた。帝国主義軍隊は、陸海軍内の革命的分子を粛清し、他の部隊に転属させる攻撃に出ていたが、その攻撃自体がツァーリの敗北を示していた。

不正義の戦争に対する兵士の不満が増大していくにつれ、塹壕では国内での生活に関連するすべての問題が前線の問題として鋭くとらえられていた。なぜなら銃後の家族がかかえる全生活の諸問題は前線の兵士の問題そのものであるからである。ある兵士の手紙には、次のように書かれている、「・・・わが銃後奥深くに満ちているあらゆる不健全なもの、醜悪なもの、化膿したもの、それらすべてのものがここに伝わってきている。各人の士気が衰えており、金持ちたちが人民を犠牲に大掛かりに儲けるための戦争をわざとたくらんだのではないだろうか、と自然、疑問が起こってくる」(「世界戦争と二月革命の時期におけるツァーリ軍隊」)と。

1916年 ボリシェヴィキの陸海軍内活動が強化

ボリシェヴィキ党の軍事組織の網は拡大されていった。北部方面隊とバルチック艦隊だけでも80以上の細胞組織が活動し、西部方面軍では30以上の党細胞組織、党グループの活動が記録されている(「世界大戦の時期における兵士獲得のためのボリシェヴィキの闘争」)。まさに、リガとドゥヴィンスクは、「宣伝によって信念を植え付けられた二つの巣窟である」(北部方面隊軍総司令官ルズスキー陸軍大将)と化していた。ルズスキーは北部方面軍の革命化の増大を兵士とリガ並びにその近郊の労働者との交流にあることを認めている。要するにツァーリと支配階級は労働者と兵士の交流・結合、共同性・団結を阻止できなかったのである。
1916年7月には、ユリエフのラトヴィア人予備連隊内に社会民主主義組織が生まれた。この兵士組織は、外套の色から「灰色」と呼ばれていた。ペテルブルク委員会との連絡を保持し、文献を入手し、連隊がヴォリマル市に移動後、活動が特に活気づき、「市街で開かれた細胞会議では、戦争に関する諸報告が、また同じく、ラトヴィアの党組織の状態と活動に関する情報が審議された。「プレハーノフが小冊子『戦争について』で述べていた排外主義的立場は非難され、ボリシェヴィキ的精神の決議が採択された」(「歴史の諸問題」)。
北部方面軍第436ノヴォラドガ連隊のボリシェヴィキ・グループの活動は、すべての前線で首尾よく繰り広げられたボリシェヴィキ活動の実例として挙げられている。このグループには1905年からの党員でペトログラード工場・レースネルの労働者、1909年からの兵士の党員、そして少尉補の下士官、その他労働者兵士で構成するグループである。このグループは専制政治の打倒と戦争の終結を呼びかけ、兵士の間で口頭での煽動・宣伝を行っていた。この時期は前線でも、国内でもボリシェヴィキの非公然的活動の参加者が活発に、多くの軍事活動を繰り広げていた。

労働者と兵士の団結、前線での団結強化

1916年には、軍隊の獲得ー革命化のためのボリシェヴィキの闘争において、特に重要な新しい二つの現象が記録されている。一つは労働者党員と兵士が団結し、もう一つは前線で広範な交歓・団結が起こったということである。 1916年1月9日、ペトログラード労働者が、1905年の「血の日曜日」で虐殺された人々を追悼するデモを繰り広げた。そのそばを通過した兵士たちとの交歓が行われ、翌日には兵士の一大グループが公然とデモ参加労働者の側に加わった。第181歩兵予備連隊の兵士たちは10月、ストライキ中のペトログラード労働者の闘いの支援に赴き、警察官に投石し、労働者への発砲を拒否した。これはボリシェヴィキの隊内活動が生み出したものでもある。

そしてペトログラード労働者の側は、隊内で決起し、不当逮捕され裁判にかけられているロシア社会民主労働党船舶集団本部員と第181連隊兵士の裁判に連帯し、支持を送っている。ボリシェヴィキ・ペトルグラード委員会は労働者に抗議ストを呼びかけ、10月26日、バルチック艦隊の水兵に対する裁判当日にはペトログラード労働者がストで応えた。3日間で13万人の労働者がストに決起し、兵士の闘いに応えている。水兵たちは死刑から救われた。裁判は4人の被告に懲役刑を宣告したが、残りのものは無罪放免となっている。
前線での交歓は、個々の実例は戦争の最初の年にすでにみられていたが、1916年にはますます規模を広範に拡大している。兵士たちは白旗を振り、「敵の塹壕」に赴き、鉄条網の傍らで会合し、贈物を交換したり、戦争終結の必要について語りあっている。
交歓の実例が頻繁にみられたのは北部方面軍のリガ地区、西南部方面軍である。これは兵士がドイツ兵、オーストリア兵のなかに階級的兄弟を見出しているようになっていたことを現わしている。交歓は、軍律を破り、相手を信じなければできない行為である。帝国主義軍隊の軍律破りは死刑を意味する。前線における万国の労働者、軍服を着た労働者・農民の国際連帯と団結の強化の現れだ。

1916年にはドイツ領、オーストリア・ハンガリー領の10か所の収容所に分散させられていたロシア人捕虜に対する在外ボリシェヴィキの活動も集約的になり始めていた。1915年春、ベルンに捕虜のための情報専門員会が設立され、約300のアドレスと文通があった。専門委員会のアドレスには約千通のロシア人捕虜の手紙が保管されていた。ボリシェヴィキは、彼らを精神的に支え、起こった諸事件の解明を手助け、帰国後、革命闘争に積極的に参加する準備などを課題とし始めていた。1916年だけで、小冊子「誰に戦争が必要なのか」が4000部、雑誌「コムニスト」が600部、「ゾッイアル・デモクラート」(第1~2号)の合本が600部、ビラ1万2000枚が発送されている。1917年2月、専門委員会は、新聞「捕らわれの身になって」の第1号を発行している。ボリシェヴィキは捕虜の間で大がかりに革命活動を繰り広げる党グループを徐々に組織していった。党の綱領、政治経済学、労働運動史を研究するサークルも創設され、彼らは戦争の原因と目的を理解し、戦争の流血と非惨事からの出口を見つけだそうとしていた。ロシアではボリシェヴィキがドイツ人捕虜、オーストリア人捕虜の間で活動を展開している。後に、彼らがプロレタリア革命の事業に積極的に参加している。

自由とプロレタリア革命へ

1916年から17年初頭にかけ、ツァーリ軍隊、帝国主義軍隊は急速に分解し、隊内の反戦的空気が嵐のように高まり、兵士が積極的な行動に移行する一時期になった。兵士たちはストライキに決起する労働者階級に連帯し、前線での攻撃作戦を拒否するという抗議の形態を行動で示し始めた。1916年10月にはゴメルの配給所で4000人の兵士の蜂起が起こった。その中にはかって騒乱に参加して歩兵に転属されたバルチック艦隊の元水兵が多勢いた。兵士は衛兵をせん滅し、逮捕者を釈放した後、武器を取り警官隊と戦闘に入った。この行動は残忍に弾圧されたがゴメル地区情勢はその後も長期にわたり緊張したままであった。同時にクレメンチュク配給所の6000人の兵士の蜂起が起こった。200人の兵士が野戦軍法会議にかけられ37人が銃殺刑に処せられた。それでも兵士の決起は続いた。
塹壕には、「兄弟諸君!われわれに必要なのは平和であって、戦争ではない。もうすでに戦争を終結させるべきときが来ている。戦争を止めさせよ、われわれに必要なのは平和である。誰に対しても、何処においても攻撃をかけてはならない、と諸君の連隊全体に伝えよ。諸君を攻撃に派遣するものがいたら、全員でそれを撃て」というビラが頻繁に持ち込まれるようになった。野戦軍法会議での死刑宣告、軍律強化の措置も無力と化す事態が隊内で進行した。そして「1917年2月には全軍が、方面軍によって多少の違いこそあれ、革命に向かって準備を整えるようになった」(ア・ア・ブルシーロフ)という情勢に突入した。
「戦争は、人民の物質力、精神力を張りつめさせるほどの、底なしの危機を生み出したし、人類を次のような選択の前に立たせるほどに現在の社会機構全体に打撃を与えた。その選択とは、破壊するか、それとも、より高度な生産様式に出来るだけ早急に、できるだけラジカルに移行するために自分の運命をもっとも革命的な階級にゆだねるか、という選択である」(レーニン全集第34巻「差し迫る破局、それとどう闘うか」)。

1917年10月のロシア革命にむけ労働者階級と兵士はその最後的準備に向け、すでに行動を開始していた。
つづく